信州 菅平で居候してた
2007年11月26日
予定は未定とはよく言ったもの
前回 「これから」って、予定を書いたけど、22日夕方に『菅平のおじさんが危篤になってきて、24日のお見舞いでは間に合わないかもしれない』って連絡が入ったんよね。。。
菅平のおじさん・・・ 僕の第2のお父さんなんよね。。。 20才頃 何回も 何ヶ月も 居候して、 おじさんおばさんには娘二人で男がいなかったから 息子みたいな奴 と、誰にも紹介してもらってた。。。
おばさんは、去年 亡くなった。。。 おじさんの方が先に病にかかったんだけど、おばさんを最後まで支えてあげはった。。。 以前このブログにも書いたけど、NHKの番組にも取り上げられた ガンと闘う夫婦 最期のダンス を病院で踊った すごい夫婦だった。
22日は 925ちゃんの誕生会だった。 「行けない」と メールしようかと思った。
大阪から一足先に諏訪の病院に向かった娘が「もう 電車はない。夜中に一人で高速を走っては来ないで。 そっちの方が心配だから」とメールをよこした。。。。
でも、様子次第では夜中に走ろうと 925ちゃんの誕生会には車で行った。
病院に着いた娘から「少し安定している。明日なら間に合うと思う」とメールがきた。
11時過ぎ まだまだ宴たけなわだったけど、先に失礼した。
23日 始発の新幹線に乗った。 ラッシュだった(^^;
名古屋まで喫煙室にこもっていた(笑)
10時前 病院着。 おじさんは、もう 話せなかった。 目も 開かなかった。
でも、おねえちゃんに頼まれて 僕が耳元で『人生を語らず』を歌ったら、手足を動かしてくれた。 ダンスのCDをかけると 手足が動き 「クイック クイック スロー」って 口が動いていた。。。
2~3日前 おじさんが まだ意識があった時に言ってた という「兄弟親戚で『サライ』を歌う」っていうのもやった。
おじさんの弟さんとは20年振りやったんやけど、「あっ、ぶうちんかぁ 名前を聞いて思い出したよ。 『見たことある顔だなぁ』とは思ってたんだ」なんて言われてたんだけど、みんながボロボロ泣いてる場面で みんな一人ずつ手を握って 話しかけたりする時 「おじさん ぶうちんやで」なんて 自分をニックネームで呼ぶのは 恥ずかしかったなぁ・・・(笑)
8時間弱 病室で過ごしました。。。
帰るね。。。と握った手を おじさんは いつまでも離してくれませんでした。。。 また来るやん そう言いながら 泣けてしかたありませんでした。。。
翌24日 おじさんは亡くなりました。
ほんとにいろいろなことをしてきたすごい人でした 幸せな最期だったと思います 最期に一緒の時間をすごせて 良かったと思ってます。。。
菅平のおじさん・・・ 僕の第2のお父さんなんよね。。。 20才頃 何回も 何ヶ月も 居候して、 おじさんおばさんには娘二人で男がいなかったから 息子みたいな奴 と、誰にも紹介してもらってた。。。
おばさんは、去年 亡くなった。。。 おじさんの方が先に病にかかったんだけど、おばさんを最後まで支えてあげはった。。。 以前このブログにも書いたけど、NHKの番組にも取り上げられた ガンと闘う夫婦 最期のダンス を病院で踊った すごい夫婦だった。
22日は 925ちゃんの誕生会だった。 「行けない」と メールしようかと思った。
大阪から一足先に諏訪の病院に向かった娘が「もう 電車はない。夜中に一人で高速を走っては来ないで。 そっちの方が心配だから」とメールをよこした。。。。
でも、様子次第では夜中に走ろうと 925ちゃんの誕生会には車で行った。
病院に着いた娘から「少し安定している。明日なら間に合うと思う」とメールがきた。
11時過ぎ まだまだ宴たけなわだったけど、先に失礼した。
23日 始発の新幹線に乗った。 ラッシュだった(^^;
名古屋まで喫煙室にこもっていた(笑)
10時前 病院着。 おじさんは、もう 話せなかった。 目も 開かなかった。
でも、おねえちゃんに頼まれて 僕が耳元で『人生を語らず』を歌ったら、手足を動かしてくれた。 ダンスのCDをかけると 手足が動き 「クイック クイック スロー」って 口が動いていた。。。
2~3日前 おじさんが まだ意識があった時に言ってた という「兄弟親戚で『サライ』を歌う」っていうのもやった。
おじさんの弟さんとは20年振りやったんやけど、「あっ、ぶうちんかぁ 名前を聞いて思い出したよ。 『見たことある顔だなぁ』とは思ってたんだ」なんて言われてたんだけど、みんながボロボロ泣いてる場面で みんな一人ずつ手を握って 話しかけたりする時 「おじさん ぶうちんやで」なんて 自分をニックネームで呼ぶのは 恥ずかしかったなぁ・・・(笑)
8時間弱 病室で過ごしました。。。
帰るね。。。と握った手を おじさんは いつまでも離してくれませんでした。。。 また来るやん そう言いながら 泣けてしかたありませんでした。。。
翌24日 おじさんは亡くなりました。
ほんとにいろいろなことをしてきたすごい人でした 幸せな最期だったと思います 最期に一緒の時間をすごせて 良かったと思ってます。。。
2006年05月14日
菅平に行ってきました
11日木曜日の夜、9時前には寝ました。
12日金曜日、午前3時少し前に起きて、友だちの家に4時頃に着き、彼とともに、菅平に向かって走りました。
20代の前半、僕と彼は 何度も菅平でスキー居候をしていました。
でも、当時は、中央道の諏訪か岡谷からは一般道でしたから、8時間も9時間もかかって 行ってたんです。
それが・・・長野オリンピックのおかげですね・・・高速道が完備されて・・・ご飯を食べたり、SAごとに売店でウロウロしたりして行ったのに(笑) 6時間もかからずに行けました。
走りながら、夜が明けていく様は とてもきれいな景色でした。 青空、山桜、アルプスの頂には雪景色・・・いろんな季節の景色が混在していました。
菅平で、おばさんのお骨を前にお参りし、 おじさん、おねえちゃん、その旦那さんと夕方までいろんな話に花を咲かせました。
先日の おばさんとおじさんのダンスが放映されたことについて、おねえちゃんから 真相話を聞きました。
あの番組は、『おばさんは、おじさんと最後のダンスができなかったことが心残りで、最期に病院でおじさんとダンスを踊れた』 という夫婦愛にまとめられていました。
撮影から放映までの間におばさんが亡くなってしまったから、余計そうなったんだろう・・・とは思っていました。 撮影時点では、『ガンに負けずに頑張ってる夫婦』であったはずだったんです。
でも、なんのなんの・・・確かに、それも事実なんだけど、それどころか、おばさんは、はじめはテレビに出るってことを嫌がっていたらしいんだけど、最後の方は 人間ばなれしていたらしい・・・
テレビクルーに 自分の人工膀胱を見せ、「膀胱ガンで こんなことになってしまったけど、それでも私はダンスを踊る。 ガンなんかに負けちゃダメだ、ガンの人はみんな見ておくれ、みんな がんばれ♪」 って。
病院に 入院してる患者や通院してる患者にも ダンスを是非見てほしい って、自分をさらけ出して、すべてのガンと闘ってる人にエールを送ろうとしていたらしい・・・。
前日、腹水を2リットル抜いて、とても立てる状態じゃなかったらしいし、足もむくんで、靴がはけなかったらしい。
でも、ほんまに 死力を尽くして踊ったんだよねぇ・・・。
お姉ちゃんは、そんな おばさんのメッセージが、すっかり 単に家族愛にすり替えられていたことを すごく残念そうにしていました・・・。
たぶん、おばさんが生きているうちに放映されていたら・・・使われたカットからして、違ったものが作られたのかもしれません・・・。
おじさんは、元気にしようと頑張ってる様子でした。
20年前は民宿でしたが、今はおそば屋さん。 そばも自分の畑で育てています。
広い畑が 菅平のアチコチにあって、レタスやリンゴやトウモロコシや・・・いろんなものを育ててましたが、今は そばだけを作っているみたいです。
「トラクターを太郎の方から大松山の小屋まで移動させたいから、ブーチン ちょっくら車に乗せてくんねぇかや」 はいはい。(笑)
トラクターはメチャメチャ遅いので、おじさんが 移動で走っている間に、友だちと初めて雪の無いゲレンデへ

リフトが動いていたら、上に登りたかったなぁ・・・ 頂上はまだ雪が見えました。
土産物屋さん回りもしてみました(笑) 20年前、すごく新しく明るく感じた店が 意外と暗かったり・・・(笑)

20代の前半、僕と彼は 何度も菅平でスキー居候をしていました。

でも、当時は、中央道の諏訪か岡谷からは一般道でしたから、8時間も9時間もかかって 行ってたんです。
それが・・・長野オリンピックのおかげですね・・・高速道が完備されて・・・ご飯を食べたり、SAごとに売店でウロウロしたりして行ったのに(笑) 6時間もかからずに行けました。
走りながら、夜が明けていく様は とてもきれいな景色でした。 青空、山桜、アルプスの頂には雪景色・・・いろんな季節の景色が混在していました。
菅平で、おばさんのお骨を前にお参りし、 おじさん、おねえちゃん、その旦那さんと夕方までいろんな話に花を咲かせました。
先日の おばさんとおじさんのダンスが放映されたことについて、おねえちゃんから 真相話を聞きました。
あの番組は、『おばさんは、おじさんと最後のダンスができなかったことが心残りで、最期に病院でおじさんとダンスを踊れた』 という夫婦愛にまとめられていました。
撮影から放映までの間におばさんが亡くなってしまったから、余計そうなったんだろう・・・とは思っていました。 撮影時点では、『ガンに負けずに頑張ってる夫婦』であったはずだったんです。
でも、なんのなんの・・・確かに、それも事実なんだけど、それどころか、おばさんは、はじめはテレビに出るってことを嫌がっていたらしいんだけど、最後の方は 人間ばなれしていたらしい・・・
テレビクルーに 自分の人工膀胱を見せ、「膀胱ガンで こんなことになってしまったけど、それでも私はダンスを踊る。 ガンなんかに負けちゃダメだ、ガンの人はみんな見ておくれ、みんな がんばれ♪」 って。
病院に 入院してる患者や通院してる患者にも ダンスを是非見てほしい って、自分をさらけ出して、すべてのガンと闘ってる人にエールを送ろうとしていたらしい・・・。
前日、腹水を2リットル抜いて、とても立てる状態じゃなかったらしいし、足もむくんで、靴がはけなかったらしい。
でも、ほんまに 死力を尽くして踊ったんだよねぇ・・・。
お姉ちゃんは、そんな おばさんのメッセージが、すっかり 単に家族愛にすり替えられていたことを すごく残念そうにしていました・・・。
たぶん、おばさんが生きているうちに放映されていたら・・・使われたカットからして、違ったものが作られたのかもしれません・・・。
おじさんは、元気にしようと頑張ってる様子でした。

20年前は民宿でしたが、今はおそば屋さん。 そばも自分の畑で育てています。
広い畑が 菅平のアチコチにあって、レタスやリンゴやトウモロコシや・・・いろんなものを育ててましたが、今は そばだけを作っているみたいです。
「トラクターを太郎の方から大松山の小屋まで移動させたいから、ブーチン ちょっくら車に乗せてくんねぇかや」 はいはい。(笑)
トラクターはメチャメチャ遅いので、おじさんが 移動で走っている間に、友だちと初めて雪の無いゲレンデへ

リフトが動いていたら、上に登りたかったなぁ・・・ 頂上はまだ雪が見えました。
土産物屋さん回りもしてみました(笑) 20年前、すごく新しく明るく感じた店が 意外と暗かったり・・・(笑)
2006年05月07日
最期のダンス 夫婦の想い
5月6日(土)の21時58分から23時までの NHK「@ヒューマン」という番組に、僕が先日 諏訪の病院に走った・・・その後 亡くなったおばさんの、最期のダンスが放映されました。 約10分にわたる特集でした。
おじさんは、番組の中でもナレーションされていましたが、現在 進行性のガンをわずらっています。 ぼくが、先週、もう一度信州へ走るつもりだったのは、おじさんのお見舞いだったんです。
おじさんは、このダンスの2日前に目眩で倒れていました。 当日、ターンをしたら また倒れるだろうから・・・難しいと思われていました。
おばさんは、もう、立つことが無理でした。 何日も前から立つことはできない状態だったんです。
抜いても抜いても腹水がたまり、踊るどころか、立つのは無理と言われていたんです。
でも、おばさんは、モルヒネを打ち、立ち上がったんですよね。
ダンスの次の日、「いやぁ ほんとに良かった~」と喜んだおばさんは、もう その夜からほとんど意識不明が続いたんです。 ほんとに 最期の最期の気力を使い果たしたんですよね・・・。
看護婦さんたちは、風船をたくさん飾り、ケーキを焼いてくださいました。 シャボン玉を飛ばしてくださいました。
忙しい中、二人のダンスを見守ってくださいました。
おじさんのエンビ服のカラー(襟)は、カラーだけ単独のものです。 お姉ちゃんが、型紙かなんかと間違えて ほかしてしまっていました。
看護士さんたちが、看護婦さんのストッキングの袋の中の厚紙を切り抜いて、カラーを作ろうとしてくださいました。 ゴミ箱の中から、カラーは発見されました(笑)
このダンス、主治医の先生が「病院の中で踊りなさいよ」と言ってくださった時、おじさんは、「ぶうちんにギターを弾いてもらって、娘に歌わせて、それをバックに踊りたい」と言ってくださいました。
うち合わせを始めましたが、それよりNHKが素早く動いて(笑) 僕たちのバックは実現はしませんでした。
家族は・・・やっと 受け入れられつつあった、おばさんの死を こんな番組を見せられたら、また 高ぶって泣いてしまうだろうなぁ・・・と思います・・・。
でも・・・、おじさんもおばさんも ほんとにスゴイなぁ と 改めて 知り合えたことを嬉しく思います・・・。
とても幸せな大往生といえますよね・・・。
おじさんは、番組の中でもナレーションされていましたが、現在 進行性のガンをわずらっています。 ぼくが、先週、もう一度信州へ走るつもりだったのは、おじさんのお見舞いだったんです。
おじさんは、このダンスの2日前に目眩で倒れていました。 当日、ターンをしたら また倒れるだろうから・・・難しいと思われていました。
おばさんは、もう、立つことが無理でした。 何日も前から立つことはできない状態だったんです。
抜いても抜いても腹水がたまり、踊るどころか、立つのは無理と言われていたんです。
でも、おばさんは、モルヒネを打ち、立ち上がったんですよね。
ダンスの次の日、「いやぁ ほんとに良かった~」と喜んだおばさんは、もう その夜からほとんど意識不明が続いたんです。 ほんとに 最期の最期の気力を使い果たしたんですよね・・・。
看護婦さんたちは、風船をたくさん飾り、ケーキを焼いてくださいました。 シャボン玉を飛ばしてくださいました。
忙しい中、二人のダンスを見守ってくださいました。
おじさんのエンビ服のカラー(襟)は、カラーだけ単独のものです。 お姉ちゃんが、型紙かなんかと間違えて ほかしてしまっていました。
看護士さんたちが、看護婦さんのストッキングの袋の中の厚紙を切り抜いて、カラーを作ろうとしてくださいました。 ゴミ箱の中から、カラーは発見されました(笑)
このダンス、主治医の先生が「病院の中で踊りなさいよ」と言ってくださった時、おじさんは、「ぶうちんにギターを弾いてもらって、娘に歌わせて、それをバックに踊りたい」と言ってくださいました。
うち合わせを始めましたが、それよりNHKが素早く動いて(笑) 僕たちのバックは実現はしませんでした。

家族は・・・やっと 受け入れられつつあった、おばさんの死を こんな番組を見せられたら、また 高ぶって泣いてしまうだろうなぁ・・・と思います・・・。
でも・・・、おじさんもおばさんも ほんとにスゴイなぁ と 改めて 知り合えたことを嬉しく思います・・・。
とても幸せな大往生といえますよね・・・。
2006年04月24日
2006年04月22日
カンテツ・・・おばさんは今頑張ってる
久々に・・・何年ぶりかで 完全徹夜しています。
若い頃はしょっちゅう徹夜でしたが、いつの頃からか 2日目まで体にこたえるようになってきて、夜明けには どうしてもウトウトしてしまうようになっていました。
一昨日の夜、とおるが、『振り返ると』と『ちょっとだけ』のドラム録音を行ったので、それにつきあい、帰って寝たのが1時過ぎ。
昨日は6時20分に起きて、仕事に行き、仕事が終わって、夜6時30分にJR京都駅八条口で友だちと待ち合わせて、名神~中央道を信州へ走りました。 そして、朝の7時前には帰ってきました。 子供たちと朝食をとり、普段の土曜日が始まりました。
信州諏訪・・・なにしに走ったかというと、僕と、一緒に行った友だちの二人を息子のように思ってくれているおばさんがいて、今、とても悪いので、「できれば来てやってほしい。それも、できるだけ早く。夜中でもかまわない。もうほとんど意識はないに近い」と家族に言われ、お見舞いに行ったのです。 いや・・・ただただ、おばさんを一目見るだけでいいと思っていました。
夜11時過ぎに病院につきました。夜間窓口で、不審者扱いされました(笑)が、家族の方がナースステーションには、「夜中に来てくれる人がいるから」と伝えてくれていたので、なんとか通してもらえました。
ほぼ、集中治療室のような、家族以外面会禁止の部屋で おばさんは、眠っていました。
でも、家族の方に「声をかけてやって」と言われ、「おばさん・・・ぶうちんだよ。久しぶり・・・」と言うと、目を開けてくれて、しばらく信じられないような顔をしながら、両手をさしのべてくれました。
その片手は僕が握りしめました。 おばさんの もう片手は、僕の頬をなでてくれました。
いろんな思い出が ほんとに頭の中をかけめぐっていましたが、そういう話をすると涙が出るから、「このまえ、ダンス うまいこと踊ったらしいね」とか「そうだ、おばさん、僕、納豆が食べられるようになったよ」とか・・・ほんとに バカなくらい たわいないことしか言いませんでした。
友だちは、毎年おばさんがおくってくれるトウモロコシのお礼や、味の話や、土産にもっていった、おばさんがかつて好きだった「おたべ」のことや・・・たくさん 話しかけてくれました。
僕は 笑いながら 相づちをうっていました。
病室を出た瞬間から がまんしていたものが がまんできなくなり、家族と 談話スペースのようなところへ行き 泣き合いました・・・。
今・・・僕の年代は、ちょうど 親の世代が死んでいく年代になっています・・・。
これは・・・順番だから・・・しかたないことではあります。
順番が違うことの方が不孝ですしね・・・。
でも、悲しいものは悲しいし、つらいものはつらいんだよね・・・
若い頃はしょっちゅう徹夜でしたが、いつの頃からか 2日目まで体にこたえるようになってきて、夜明けには どうしてもウトウトしてしまうようになっていました。
一昨日の夜、とおるが、『振り返ると』と『ちょっとだけ』のドラム録音を行ったので、それにつきあい、帰って寝たのが1時過ぎ。
昨日は6時20分に起きて、仕事に行き、仕事が終わって、夜6時30分にJR京都駅八条口で友だちと待ち合わせて、名神~中央道を信州へ走りました。 そして、朝の7時前には帰ってきました。 子供たちと朝食をとり、普段の土曜日が始まりました。
信州諏訪・・・なにしに走ったかというと、僕と、一緒に行った友だちの二人を息子のように思ってくれているおばさんがいて、今、とても悪いので、「できれば来てやってほしい。それも、できるだけ早く。夜中でもかまわない。もうほとんど意識はないに近い」と家族に言われ、お見舞いに行ったのです。 いや・・・ただただ、おばさんを一目見るだけでいいと思っていました。
夜11時過ぎに病院につきました。夜間窓口で、不審者扱いされました(笑)が、家族の方がナースステーションには、「夜中に来てくれる人がいるから」と伝えてくれていたので、なんとか通してもらえました。
ほぼ、集中治療室のような、家族以外面会禁止の部屋で おばさんは、眠っていました。
でも、家族の方に「声をかけてやって」と言われ、「おばさん・・・ぶうちんだよ。久しぶり・・・」と言うと、目を開けてくれて、しばらく信じられないような顔をしながら、両手をさしのべてくれました。
その片手は僕が握りしめました。 おばさんの もう片手は、僕の頬をなでてくれました。
いろんな思い出が ほんとに頭の中をかけめぐっていましたが、そういう話をすると涙が出るから、「このまえ、ダンス うまいこと踊ったらしいね」とか「そうだ、おばさん、僕、納豆が食べられるようになったよ」とか・・・ほんとに バカなくらい たわいないことしか言いませんでした。
友だちは、毎年おばさんがおくってくれるトウモロコシのお礼や、味の話や、土産にもっていった、おばさんがかつて好きだった「おたべ」のことや・・・たくさん 話しかけてくれました。
僕は 笑いながら 相づちをうっていました。
病室を出た瞬間から がまんしていたものが がまんできなくなり、家族と 談話スペースのようなところへ行き 泣き合いました・・・。
今・・・僕の年代は、ちょうど 親の世代が死んでいく年代になっています・・・。
これは・・・順番だから・・・しかたないことではあります。
順番が違うことの方が不孝ですしね・・・。
でも、悲しいものは悲しいし、つらいものはつらいんだよね・・・